志村ふくみさんの展覧会

  • 2016.10.27 Thursday
  • 13:41

 

 

世田谷美術館に行ってきました。

 

「志村ふくみ 母衣への回帰」展。

 

もちろん展示してあるのは主に着物なのだけれど、もう着心地とか素材としての糸の感触とか、そんなものを超えていて、それ自体をキャンバスにした圧倒的な色の世界が広がっていました。

 

清らかで神秘的な世界に誘われたまま美術館から外に出て、そして快晴の砧公園の木々の緑や木漏れ日がとても美しく包んでくれて、夢見心地のまま家路につくことができました。

 

 

息子がまだお腹の中にいた頃、志村さんの本を読みまくりました。

 

家の近くに大きな公園があって、木々の茂る散歩道や広い草原もあるのに誰もいなくて静かで、身重の私のお気に入りの散歩コースでした。

 

木陰のベンチに腰を下ろして、1時間くらい読書に没頭することもありましたが、いつも読んでいたのは志村ふくみさんの本でした。

 

もう17年も前のことです。

 

 

月日が経って、自分も歳をとって、雑事に追われることも多くなって、当時感じたことや、感じ方、みたいなことを忘れてしまっていることを、展示を見終わって思いました。

 

もちろん若さゆえ自由で妄想的、出産育児への不安もあってだいぶ感傷的なところもあったと思いますが、今よりもずっと敏感に周囲にあるものを受け入れていた気がします。

 

恥ずかしながら17年前の5月初めの日記。

 

「志村ふくみさんの『母なる色』を読んだ。難しい本だけど、木もれ日の光の中で読むと、理解はできなくても感じることはできる。植物の樹液の初々しいもも色、藍甕の中に見える一瞬の紅の存在。世の中に色が氾濫しすぎて、そんな神秘的な色を見る心を失いつつあるように思う。物質に付着した色じゃない、人間の手の及ばない色、空の青や草木の緑、花の色、とにかくそんな色を謙虚に感じることのできる心をずっと忘れずにいたい。」

 

むちゃくちゃ恥ずかしいんですけれども、今回展示を見て感じたことも、これと同じようなことでした。

 

忘れずにいたかったのに、忘れてました。

 

 

美しい裂がたくさん展示してある部屋の壁に、「裂によせて」という詩の一部がありました。

 

 

なぜ、ひとは

ガラス絵や、貝殻や、玉をみるように

織物をみようとしないのだろう

 

どんな材料で

どうして染め

どのようにして機にかけ

織り上げたのかと

 

まず問いかける

 

まるでそういう仕掛しか

織物にないかのように

 

 

これを読んで、自分を振り返ってみなさいと鏡を目の前に突きつけられたような、そんな気になりました。

 

こんなふうにしか織物を見られないなんて、それは私が織物を冒涜していることになりはしまいか、とさえ思いました。

 

もちろん織物にも色々ありますが、人の手で自然由来の恵みでつくりあげる布は、それが鑑賞の対象であろうが纏われようが、哲学的な何かを宿している気がします。

 

その限られた小宇宙の中で、布が囁きかけてくる何かを感じたいし、そんな布をいつの日か織れるようになりたいものです。

 

砧公園木々と木漏れ日

 

砧公園木々

 

志村ふくみ展

 

 かつて読んだ本と今回購入した図録や本。

 

 ページが開いてある図録は、22年前、

 遠路はるばる滋賀県立近代美術館まで見に行った

 「志村ふくみ展 人間国宝・紬織の美」の時のものです。

 

 背表紙も光焼けしてしまっているけれど大切なもの。
 

 

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